餓死供養塔
(1)寛政12年(1800 )建立
(2)文化12年(1815)建立
(3)天保3年(1832 )建立
(4)安政2年(1855)建立
江戸時代に米が財政の基盤となり、水稲栽培がおし進められると、冷涼な気候の南部藩ではたびたび凶作・飢饉にみまわれました。なかでも元禄(1695)、宝暦(1755)、天明3年(1783)、天保53年(1833 )の飢饉は悲惨で、
これを南部四大飢饉と称しています。
宝暦5年には19万9千7百石の減作となって収穫皆無の所が多く、藩内全人口の17%にあたる54,22 7人が餓死し、天保の飢饉は3年から9年までの7年間にわたる大規模なもので、毎年80 から90%以上の減収という未曾有の大飢饉でした。藩の救済は全くなすすべもなく、農民は飢えに苦しみ、村を捨
てて離散するものも多かったのです。
村民の餓死者の数は不明ですが、この碑は打ち続く凶作の犠牲になった人々の供養のために建てられたものであり、祖先の苦難の歴史をもの語る史跡です。
(1)と(3)は鵜飼村第24 地割字笹森(一本柳)の柳の大木のそばに建てられていたものを道路改良のために昭和54年10月3日に柳の一部とともにこの地に移されたものであり、(4)は滝沢第1地割字高屋敷72番地2にあったものを昭和54年12月歩道整備工事のために移転したものです。
- 登録日:1967-03-01
- 文化財の指定:滝沢市指定文化財
- 文化財の種類:史跡
- 交通・見学:県交通「滝沢ニュータウン中央」下車徒歩5分
供養塔が4基ありますので、静かにご覧ください。 - 住所:滝沢市内
- Tel:019-684-2111(文化振興課)